こんばんは!
新元号が発表されてからしばらく経ちましたが、時間が過ぎるにつれ、段々と馴染んできた感じがする中での投稿です(^^♪
『令和』という新元号。初めて聞いた時は、あまりパッとしませんでしたが、テレビなどの解説なども聞いていると、良いなぁ~と思うようになりました。
『令和』という時代が、平和な世の中になることを、人々が幸せに暮らせる世の中になると良いな、と心から思います(^^)/
そして同時に残り1カ月となった『平成』
最後まで平和な年であるようにと願うのみです!
今日は新元号の発表日!ということにちなんで、今回は『上河内茶』の、上河内地区でのお茶の歴史と、おかのや農園の歴史について投稿したいと思います。
年貢として…
上河内地区でのお茶の歴史(上河内茶の歴史)は、最も古い物で年貢として納められていた記録があるそうです!
その古文書を実際に見たことはないのですが…
1547年(天文16年)には納められていたようです(^^;)
(「島田市観光協会 島田市のお茶」から参照)
平成から遡って何年前なのか…?
ちょっと、片手では数えられそうにありません。
また、この時代はまだ室町時代に当たります。
静岡県の武将と言えば「徳川家康公」の名が挙げられることが多いですが、家康が駿河を治める前のこと、今川義元が治めていた時代です!
まだ桶狭間の戦い(1560年)も起きていません!
それほど昔から作られてきたのか?
実際にその時代で目にしたわけでは無いので、「絶対にそうだ!」とは言えないかもしれません。しかし、昔から作られてきたのは確かだと、私は思っています(-_-)
おかのや農園はいつから…?
上河内茶の歴史。上河内地区でのお茶は、仮に1547年に始まったとします。
では、おかのや農園ではいつからお茶を作り始めたのか…?
それは正確には分かりません(-_-;)
もしかしたら、”年貢としてお茶を納めていた当時”から作っていたのかもしれませんし、江戸後期になってからのことなのかもしれません…。
ただ、1864年(元治元年)には、確実にお茶を作っていました!
平成から遡ると「平成」→「昭和」→「大正」→「明治」→「慶応」→「元治」
6つ前の年号になります。
どのようなお茶が作られていたのか?それらを知ることはできませんが、予想するとワクワクします(^^♪
まだ、この時代には機械化は進んでいないため、もちろん手で揉んでいたと思います。また、「やぶきた」という品種も生まれていないですし、お茶畑も今とは全く異なっていたことでしょう!
そして昭和13年には機械化が行われたのか…。
今では物置と使用している壁の一部には、「岡埜谷製茶工場 昭和十三年春新築」と文字があります。
ちなみに今現在では、機械などは一切残っていません!
ほのかに面影を残すのみです。
この時代(昭和13年)は、私にとってはまさに教科書の中に書かれている時代です。
日中戦争がはじまった次の年であり、東京オリンピック(第12回大会)や万国博覧会が中止になった年です。太平洋戦争もまだ開戦していません。
いつまでもお茶が作れる世であるように!
お茶はカロリーがある作物ではありません!
「人が生きていく上で絶対に必要な物」ではないのです。
でも、お茶には気分を安らげたりする効果などがあったり、リラックスできるひと時、家族やお客さんなど人と関わる時間と共にある物になります。
たしかに、生きていく上では絶対に必要では無いかもしれませんが、『情緒面を豊かにする飲み物』であると私は思っています。
そのため、暮らしていく上では必要な物になるのでは…?ないでしょうか。
また、お茶にはカロリーが全くと言っていいほどありません!
もし食糧危機が訪れたら、もし戦争や鎖国状態になったら…(-_-;)
お茶を作るのを止めて、カロリーのある農産物(イモ類や穀物類)を、作らなければならない状況になるかもしれません…。
お茶を作れる世の中であること。お茶を楽しむことが出来る世の中であること…。
これらに感謝をするとともに、『令和』そして次の時代、次の次の遠い未来まで、お茶を楽しめ、お茶を作れる世が続いてほしいものですm(_ _)m